易学講座 風水探訪

~東京下町の観光スポット・浅草寺の風水学的考察 その1~

9日ぶりの投稿となりました。
今月22~23日の2日間、大ちゃんによるプロ手相家認定試験を行いましたので、先ずはその報告をさせていただきます。
※大ちゃん・・・小林大輔氏 立命塾第二期卒業 立命塾新潟支部長
7、8月の講義への受講は10名でしたが、所用や自信がないという様々な理由で、認定試験受験者は結局2名でした。
22日は、巨人の優勝パレードが銀座中央通りであったため、みんなで勝ち運をいただこうと見に行きました。(というか、生まれたときからのジャイキチである私の自己中心的な企画でしたが~笑~)
11時には教室へ戻りましたが、今回は初回限定の超サービス企画でして、合格するための認定試験という意味合いで、試験に出るところのおさらい講座を行いました。
23日は筆記試験と実技試験を行い、2名(田中壽壽さん、伊藤幸代さん)には免状をお渡しし、午後は昼食後に浅草へ移動して、浅草公会堂前にあるスターの広場の、芸能人の手型を見ながら、手相の研究をしました。その後、風水の解説をしながら浅草寺の参拝をなし、17時には解散しました。
大ちゃん氏の手相鑑定は、正直う~んとうならざるを得ません。西谷泰人先生や高山東明先生はじめ大家と言われる手相家に師事し免状をいただいただけでなく、会社役員時代を含めた58年間における人生経験をふまえての鑑定は、ただ適中するだけでなく、親の立場に立ってのやさしさときびしさが同居しており、少なくとも私が知っている手相家の中では一番ですね。
今回受験した2名に対して模範鑑定を行いましたが、そのうちのお一人田中さんは感激の余り泣かれていました。田中さんは11年前、私が脱サラしてすぐ、愛する家族を置いて大阪へ単身で修業していたときに、最初に風水講座と四柱推命講座を行った受講生の一人でして、長い付き合いなのですが、大ちゃん氏の鑑定の的確さと情深いアドバイスに感銘していました。
来年も西谷式流年法によるプロ手相家養成講座を行う予定ですので、お楽しみに!!

さて話を変え、本題に入りたいと思います。
浅草寺は、年間3000万人が訪れると言われる浅草観光のメインスポットですが、23日に手相の認定試験後にみんなで訪れたときも、祝日だったということもありますが、表参道の入り口である雷門から浅草寺本堂まで、外人観光客をはじめぎっしりで、特に仲見世通りでは日本語、英語、韓国語、中国語等が交錯する大変な賑わいでした。
これだけの集客力を持つには、人を惹きつけるパワーがあるということですが、先ず浅草寺の歴史等について確認しておきましょう。

浅草寺のご本尊が観音様であることは言うまでもないことですが、浅草寺のHPによると、浅草寺縁起として下記のような説明がなされています。

 「時は飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟が江戸浦(隅田川)に漁撈(ぎょろう)中、はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得(かんとく)した。郷司(ごうじ)土師中知(はじのなかとも:名前には諸説あり)はこれを拝し、聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依(きえ)し、その後出家し、自宅を改めて寺となし、礼拝(らいはい)供養に生涯を捧げた。
 大化元年(645)、勝海上人(しょうかいしょうにん)がこの地においでになり、観音堂を建立し、夢告によりご本尊をご秘仏と定められ、以来今日までこの伝法(でんぼう)の掟は厳守されている。
 広漠とした武蔵野の一画、東京湾の入江の一漁村にすぎなかった浅草は参拝の信徒が増すにつれ発展し、平安初期には、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)さま(794~864、浅草寺中興開山・比叡山天台座主3世)が来山され、お前立のご本尊を謹刻された。
 鎌倉時代に将軍の篤い帰依を受けた浅草寺は、次第に外護者として歴史上有名な武将らの信仰をも集め、伽藍の荘厳はいよいよ増した。江戸時代の初め、徳川家康公によって幕府の祈願所と定められてからは、堂塔の威容さらに整い、いわゆる江戸文化の中心として、大きく繁栄したのである。かくして都内最古の寺院である浅草寺は、「浅草観音」の名称で全国的にあらゆる階層の人達に親しまれ、年間約3000万人もの参詣者がおとずれる、民衆信仰の中心地となっている。」

このHP上の説明文にも出てきていますが、徳川家康が江戸城における表鬼門の守りとして、上野の寛永寺とこの浅草寺を位置付けたことは、風水に関心ある人であれば誰しもご存知のことと思います。
浅草寺のご本尊である聖観音像を安置している本堂は、江戸幕府三代将軍の徳川家光公の意向で1649年に建立された国宝でしたが、残念ながら太平洋戦争時である1945年の東京大空襲により焼失し、現在の本堂は1958年に完成した建物で、現在瓦屋根をチタン製のものに葺き替える工事中です。

いよいよ浅草寺の風水学的考察ですが、先ず、理氣の観点から考察したいと思います。
第8運 癸山丁向

1649年は三元九運の下元第八運にあたります。現在の本堂の坐向は癸山丁向ですが、本堂の位置と向きは現在のものと同じなので、第8運、癸山丁向の宅運盤を作成すると双星会向となります。

第5運 癸山丁向一方、現在の本堂は1958年完成ですから、中元第5運にあたり、宅運盤を作成すると旺山旺向の吉格です。
どちらも吉格ではありますが、現本堂は第6運に入った1964年以降は失令し、本堂入り口の向星(水星)の5()が暴れる凶運期に入っていることになります。取り分け雷門~宝蔵門~本堂に至る表参道は、1km近くにも及ぶ長い一直線の道路で、巒頭の形サツでいう「槍サツ」となっています。「槍サツ」は巒頭的には凶とされますが、理氣と絡めると、玄関の向星が吉星であれば、逆に吉星を刺激して吉効果を増す働きがあります。逆に向星として凶星(五黄など)がきていると、火に油を注ぐこととなり、凶作用を増してしまう憂いがあります。
浅草寺本堂の出入り口の向星は五黄ですので、後者の憂いがあるのです。
幸いなことにこの表参道には、雷門、宝蔵門という二箇所の大門があり、巒頭的には槍サツを弱めていることになりますが、理氣的に見れば、少なくとも玄空宅運は衰運にあり、さらに言えば、本堂を多くの参拝客が往来することにより五黄が刺激され、災厄を招きかねないというのが通常の鑑定結果です。
しかし現実は本堂が工事中にもかかわらず、多くの参拝客、観光客が訪れています。
通常の陽宅における理氣風水の鑑定結果に相反する大繁盛の理由は一体どこにあるのでしょうか!?
キーワードは、
・ご本尊である聖観音像
・山門
・巒頭風水
の3つあるというのがウメサンの視点ですが、この考察に関しては、次回に譲ることとします。

                                    その2へ続く>>

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