風水探訪

~在日白衣民族の聖地風水探訪記第3回『巾着田』~

『聖天院』の記事投稿から、2週間が経ってしまいました・・・、スミマセンm(_ _)m
ここのところおかげさまで、セミナー、出張鑑定、そして16~17日は宮城へ風水探訪の旅と、休みなく仕事等が続き、気になりながらもなかなか投稿できませんでした。
ウメサンの母の納骨後、完璧ではありませんが陰宅を少し整えてから、雨が降ると必ず仕事の依頼、講座のお申し込み等をいただき、自分でも玄空大卦法の玄妙さに驚くとともに、母を含め、ご先祖への感謝の念が深まりました。やはり風水の行き着くところは、風水の出発点である陰宅だと、つくづくと実感します。
16~17日の宮城風水探訪の旅ですが、松島、青葉城、瑞鳳殿(伊達政宗の廟)に行ってきました。家内が同行しましたが、23周年の記念旅行も兼ねさせていただきました。松島を北上して東松島、石巻の被災地まで足をのばし、この目にその被災状況を焼き付けてきました。この探訪記に関しては、後日投稿したいなと思っています。

それでは、前置きが長くなりましたが、白衣民族の聖地風水探訪記第3回として、『巾着田』について、風水師の立場から投稿したいと思います。
巾着田は、その名にある巾着の如くΩ字型に流れている高麗川に守られた地です。
巾着田の鳥瞰図
巾着田に残っている田んぼ聖天院にあった日高市作成の案内掲示板(9/28の投稿記事画像参照)には、「・・・若光一行がここを風水学上、最高の地と定めた。山林を切り開き、ここを居住地と定め、巾着田を造成し、武蔵野一帯に稲作を普及した。」とありますが、現在は埼玉県重要文化財に指定され、田んぼはごく一部だけ残っています。
巒頭風水上、玄の字型、Ω字型に流れる河川の内側は、龍氣が宿る吉地とされますが、実際にその地に行ってみて、生氣を感じました。
昔、この地を開墾した高麗民族により収穫されたお米は、さぞかし龍氣、生氣に満ちていたことでしょう。
巾着田西側を蛇行して流れる高麗川もともと高麗川はかなり蛇行して流れていたと思われますが、若光一行はじめ高麗民族は、高い土木技術を当時も持っており、稲作に適するように、治水工事は施されていたと思われます。

木漏れ日を浴びた幻想的な彼岸花現在は観光地化され、Ω状に流れる高麗川沿いには、9月下旬~10月上旬にかけては一面曼珠沙華(彼岸花)が咲き誇り、多くの観光客に賑わいます。まるで赤い絨毯が敷かれたような、見事な光景ですが、とりわけ木漏れ日を浴びた曼珠沙華は幻想的で、まるで天国にいるような錯覚を感じさせるほどです。
家内と訪れた9/27は、ちょうど曼珠沙華祭りが行われている期間で、平日ではありましたが、観光バスはじめ、多くの車が駐車場に訪れており、賑やかでした。
こうした風水上の吉地が観光地化され過ぎるのは、風水師としては残念ですが、しかしこの見事な曼珠沙華畑を見て、こうした観光地化は許されるかなと思いました。

8/22に小川先生夫妻と訪れたとき、縁あってたまたま高麗神社で出会った立命塾門人のNさんに、巾着田を前面に見渡すことのできる大きなお屋敷を案内いただきましたが、このお屋敷は旧新井家住宅です。
新井家住宅県道川越-日高線沿いに築かれた高さ3mほどの石垣に守られた高台には、小さなお城とも言える立派な木造入母屋造りの大邸宅がでんと構えていました。江戸中期に立てられたということですから、300年ほどの歴史があり、新井家はもちろん高麗民族の家系で、長い間豪農として繁栄してきたようです。
後ろには日和田山、前には巾着田が明堂の役割をなしており、まさに背山臨水の地に建てられた好風水地の陽宅で、永らく繁栄した理由が伺えます。
現在は日高市が新井家より購入し、景観・保全に努めているとのことです。
残念ながら新井家の大門前から巾着田を囲んで流れる高麗川の来水と去水の方位、日和田山の方位等の羅盤測定を今回はできませんでしたが、機会を見て行いたいという強い思いにかられました。

もう曼珠沙華の時期は過ぎましたが、春には桜の見所でもありますので、ぜひ、一度訪れてみてほしい好風水地です。

次回は高麗神社について記します。

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