風水探訪

恒例の喜多院詣で

 昨年は、2/3の節分会に参加しましたが、今年は立春後のに2/7に、喜多院詣でをしました。喜多院は川越市にあり、正式には川越大師喜多院と言います。
 以下、喜多院のホームページhttp://www.kawagoe.com/kitain/より、引用させていただきます。
 「仙芳仙人の故事によると奈良時代にまでさかのぼるかもしれません。伝えによると仙波辺の漫々たる海水を法力により除き、そこに尊像を安置したといいますが、平安時代、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願所であって、本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王、毘沙門天等を祀り、無量寿寺と名づけました。
 その後、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(元三大師)をお祀りし官田50石を寄せられ関東天台の中心となりました。
 正安3年(1301)後伏見天皇が東国580ヶ寺の本山たる勅書を下し、後奈良天皇は「星野山-現在の山号」の勅額を下しました。更に天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上しました。」
(写真は喜多院の手洗い鉢~この双龍は私のお気に入りです~)
喜多院手洗い鉢 そして、天海僧正(慈眼大師)が、慶長4年(1599)に第27世の法灯を継ぎます。以下また引用させていただきます。
 「天海僧正の生まれは会津で、比叡山・園城寺などで修行しました。そして、関ヶ原の戦い後、徳川家康の帰依を受け、幕府の宗教行政に参画しました。
 徳川家康公の絶大な信頼を得、顧問的な存在として知られます。以後、秀忠公、家光公に仕えました。慶長17年(1612)、天海の進言により家康公は無量寿寺再興を認め、喜多院を関東天台宗の本山と定めて天海の在住を招請しました。これを受け、以後、関東の天台宗寺院はすべて喜多院・天海のもとに属することとなりました。108歳まで生きた天海大僧正が残した「気は長く 勤めは堅く 色うすく 食細くして こころ広かれ」という言葉は養生訓としてつとに有名です。寛永20年(1643)10月2日、東叡山寛永寺にて入寂され、それから5年後、朝廷から「慈眼大師」の諡号を賜い、朝廷から賜る大師号としては史上最後、日本で7番目の大師様となりました。」
 この天海僧正が、徳川家康の命を受け、風水学を駆使して江戸城地を選定したというのは、とても有名な話ですが、私はこの天海僧正こそ、日本史上でも最高の風水師と思っています。
 さて、昨日(2/8)は、京都にてビルメンテナンス会社の出張風水鑑定でしたが、帰路につく前に京都駅にて、久しぶりに占術仲間の乙恩さんとお茶を飲みました。新幹線出発時刻前の、わずか1時間足らずのひとときでしたが、京都の風水や白川漢字学などで大変話が盛り上がりました。その話の中で、天海僧正の正体は明智光秀だと乙恩さんが確信されており、その根拠もあげて説明してくれましたが、とても浪漫のある話で、聞き入ってしまいました。
 そのことが事実かどうかは別として、現代の日本の発展に、大きく寄与した「風水師・天海僧正」であることは間違いなく、毎年この喜多院に参拝して、天海僧正のパワーをいただいている(と思っている)、ケロケロウメサンです。 

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