風水学 連載コラム

旅行新聞風水コラム第5回~『日本史上最高の風水師・天海僧正』~

またまたごぶさたしてしまいました。ここのところおかげさまで連日、出張鑑定、セミナー、氣場改良工事等が続き、帰宅後はなかなかパソコンキーボードをたたく元気が出ず、申し訳ありません。どうやら今月は、これが最後の投稿となりそうです。
さて本日は、栃木にて氣場改良工事を行いました。今回は、新築工事が始まったばかりの基礎工事段階における、太極部の氣場改良を行いました。早朝から大きな穴を掘削し、1000リットルの磁場改善用の炭と直径80mmの天然水晶玉1個を埋設させていただきました。
2008.3.26 上野公園の桜並木
午前中に工事を終え、夕方からは上野にて、国際・風水協会のミーティングを行いましたが、会議前に1時間ほど時間があったので、工事道具の入った大きなバッグは駅のコインロッカーに入れて、まだ開花宣言されて間もない桜を見に、上野公園に行ってみました。開花宣言されてからまだ4日目でしたが、予想よりも早く、すでに満開間近の9分咲きとなっており、約1,200本も立ち並ぶほぼ満開の桜並木の下を歩いているうちに、工事の疲れは吹き飛び、「あ~、日本人に生まれてよかった!」と、心身ともに癒されたウメサンでした。(画像はウメサンが撮影した上野公園の桜並木)
その足でそのまま国際・風水協会の事務所へ迎い、2時間ほどの会議を終えて桶川の自宅に着いたのは夜10時を過ぎていました。
それでも桜に癒され元気をもらったウメサンは、なんとか2週間ぶりにブログを投稿することができました。今回は、旅行新聞に連載中の風水コラム第5回の内容をご紹介させていただきます。         

          第五回「地理風水のキーワード“龍穴砂水”」その3
              『日本史上最高の風水師・天海僧正』

会津で誕生し、比叡山・園城寺などで修行した天海僧正は、慶長4年(1599年)に無量寿寺北院(現川越大師喜多院)の第27代住職となります。そして関ヶ原の戦い(1600年)後、徳川家康の帰依を受け、幕府の宗教行政に参画するようになりましたが、家康公の絶大な信頼を得て、家康公のみならず、秀忠公、家光公の徳川家三代に渡り、重要なブレーンとして仕えたとされています。
慶長17年(1612年)、天海僧正の進言により、家康公は無量寿寺再興を認め、喜多院を関東天台宗の本山と定め、以後関東の天台宗寺院はすべて喜多院・天海のもとに属することとなりました。108歳の天寿を全うしたとされる天海大僧正が残した「気は長く、勤めは堅く、色うすく、食細くして、こころ広かれ」という言葉は養生訓として、今日でも生きた教えとなっています。
寛永20年(1643年)10月2日、東叡山寛永寺にて入寂され、それから5年後、朝廷から「慈眼大師」(一般的には川越大師と呼ばれている)の諡号を賜い、朝廷から賜る大師号としては最後、日本では7番目の大師様となりました。
 大師の称号をいただくほど、宗教家としても卓越していた天海僧正ですが、徳川家康の命を受け、風水学を駆使して江戸城地(現皇居)を選定し、さらには家康公を龍穴上にある東照宮奥社に祀り、三百年に渡る徳川家の繁栄をもたらした、この天海僧正こそ、日本史上でも最高の風水師だと言えるでしょう。

追伸)
月内にアップ予定でした「風水師ヨネヤマ」さんの実例は、スミマセンm(_ _)m、4月初めには投稿したいと思います。

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